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画家という仕事、そして生き方

加茂昂くんについて

12年目の3.11という節目の日に、川越のカフェ&スペース「NANAWATA」で開催中の加茂昂くんの展示へ行ってきました。

加茂くんは東日本大震災で起きた原発事故をテーマとして作品制作をしている画家であり、私の大学時代の同級生でもあります。

私の故郷で起きた災害を様々な視点で捉えながら作品を描き続けている加茂くんの活動を私も自分の出来る範囲で協力し、そして追いかけています。

一昨年の冬、加茂くんから、帰還困難区域にあった実家の解体跡地を取材させてほしいという相談がありました。

土地を除染し、家屋を解体した跡に作業完了の印として立てられる立て札の絵を描きたいということでした。

そのときまだ構想中だけど、油絵具を自分で作りたいと思っているということも聞いていました。

その構想がいよいよ作品として完成して展示されるということになり、そのリリース文を読むとなんとその自作の油絵具の原材料は自らの排泄物とのこと!なるほど、そう来たか笑!うん、でもなんか分かる。というのが最初の私の正直な感想でした。

なかなかセンセーショナルな今回の新作と、どのような思考でそういった行動に至ったのかいろいろと話を聞くのを楽しみに、川越へ向かいました。

新型コロナウイルスが画家の生活にもたらしたもの

加茂くんとの会話はとても面白く興味深いものでいろいろと書きたいことはあるのですが、なかなか内容をまとめるのが難しいのでここから箇条書きで印象に残ったものをいくつか記していこうと思います。

聞いたことを自分なりに整理して書いているので、加茂くん本人が話したことと若干ニュアンスは異なっていると思いますが、ご了承下さい。

 

・排泄物から絵の具を作るに至るきっかけ

土というものを主軸に今回の作品を考えていった。除染された土が運ばれ一時的に保管される中間貯蔵施設に興味があり、そこを取材したかったがコロナ禍が始まりなかなか双葉郡へ行くことができずにいたところ、自宅で過ごす時間が増え、家庭菜園を始めることになった。自分でも土を手で触る機会が増え、土から絵の具を作り、それで描くということを考えた。同時にコロナ初期の社会の混乱(行動制限、経済活動の停滞など)を経験する中、絵を描くという行為も資本主義経済から成る社会構造の上に成立していることを実感する。そうしたことも影響して、畑を始めたときからコンポストで堆肥を作るということも始めていたこともあり、絵の具の原材料となる「土」自体を自分の生活サイクルから出るもので作る=排泄物から絵の具を作るということに繋がっていった。

 

・排泄物の行方から考えたこと

絵の具用のコンポストトイレをアトリエ倉庫内に設置し、そこで用を足すうちに排泄物に対する感覚が変わっていくのを感じる。(コンポストトイレに排泄する行為は「気持ちが良い」そうです!)糞土師と呼ばれる30年間野外で排泄を続けている伊沢正名さんの著作などにも影響を受け、日本に住んでいる一般的な人々の排泄物の行方について考えるうちに、それもまた合理主義や生産性の向上というシステムに知らぬ間に加担していることに気づく。排泄物はトイレに流された後、下水処理施設で処理され、焼却灰となり最終的にコンクリートの材料の一部となる。このコンクリートが東北の津波災害地区の防波堤として使われるということを想像した場合、それは震災以前の「壊れない」や「効率よく」という価値観を基にして作られる社会システムの構築に加担することでもあり、それでは結局また同じことを繰り返してしまうと感じる。同じように、原発事故被災地においては、農地だった土地を除染してその上に新たな土を撒き、その上に廃炉作業の建物やメガソーラーなどを建造していく。「復興」というのは果たしてそのようなハードを固めていくような方法しかないのだろうか?自分はそうではなく、畑だったところに豊かな土を撒き、畑をまた作るというような、ソフトな復興を選択肢として選んでいきたい。このように、皆が日常で当たり前のように行なっている「排泄」という行為ひとつとっても、いかに現代社会の人々が自然から切り離されて生きているのかが分かる。効率や生産性を高める為に、人間は自然の一部だあるという価値観を捨て、自然をないものとして考えてきた。どこに排泄するか?こんなささやかなことでも、それは社会を変えるアクションのひとつとなる。

 

・絵の具を自作する労力=農家が土を作る労力

コンポストトイレで出来た堆肥をさらに細かくして顔料にし、リンシードオイルや固着材などを混ぜ、そして更に練っていく。その中でも特に細かくする作業がとても大変だったが、敢えて手作業で行った。それは双葉郡で農業をしている方から聞いた、田んぼや畑の土の表層10センチはすごく重要で、そこに栄養素が含まれているという話や、別の資料で読んだ自然界の森の土は1センチたまるのに100年かかるという話から、土というのがどれだけの時間をかけて出来たものであるかというのを感じていたから。自分が絵の具を作る上でも(たとえ膨大な時間がかかったとしても)出来るだけ手作業でやりたかった。

 

・惑星としての土/復興としての土

そのようにして出来上がった絵の具を使い、除染後の田んぼの風景を描いた。放射能汚染されてしまった為に剥ぎ取られた土地。そこには白い立て札が立っている。それはまるでそこにかつてあった豊かな土の墓標のようだが、そこに自分が作った豊かな土を撒くような意識で絵の具を置いていった。そして、それが自分の考える「復興」の意思表明である。そのような意図で描いた。

画家の想いが詰まったマチエール

こういった話を聞いて実際に作品を鑑賞すると、やはり今までの加茂くんの絵より更に強いものを感じられる気がしました。

彼の作品は油絵具をかなり重ねて出来上がる厚みのあるマチエールが特徴的ですが、今回の作品はそのマチエール部分に使われているのが自作の油絵具の為、その意味合いが更に増しているように感じられ、非常にやるせない悲しい風景であるにも関わらず、そういった画家の意図からくるエネルギーが画面から放たれているように思えました。

「ここからまた始まるんだよ」という声が聞こえてきそうな、希望の風景のようにも見えました。

「循環型社会」ではなく「堆肥化」という考え方

堆肥化という言葉の意味はWikipediaによると、「人の手によって堆肥化生物にとって有意な環境を整え、堆肥化生物が有機物(主に動物の排泄物、生ゴミ、汚泥)を分解し、堆肥を作ることである。」ということだそうですが、加茂くんは、奈良の里山で自然農をしながら生活を営んでいる東千茅さんや、アメリカの思想家ダナ・ハラウェイ氏が言及している「堆肥化」という考え方がこれからの社会の中でとても重要なキーワードになると感じているそうです。
私はその言葉を聞いたとき、最近メディアなどでよく言われている「循環型社会」のようなことかと思ったのですが、それは「循環型社会」とは似て非なるものでした。
加茂くんの説明によると、「循環型社会」は、結局今の社会の延長上でしかないというか、今の自分の生活や行動を担保した上での考え方である。「堆肥化」というのはもっと積極的に自然のどろどろとした生き物臭いサイクルに自分からまみれにいくような、よりしっかり自分の身体を伴って参加していくような考え方であるということでした。
身体が伴うとやはり気持ちが良い!という感覚があるそうで、それが持続化にも一番大切であると実感しているそうです。
だからこそコンポストトイレでの排泄をを二年も継続できたということです!すごい!)
この考え方を私も加茂くんから教えてもらい、確かに循環型社会の考え方を頭で理解はしていても、楽しいとか気持ち良いとか、ポジティブな感情を伴わないと、生活の中で継続していくのは難しいだろうなと納得しました。
固定化されたものやシステムをどのように分解して循環させていくのか?それを日常でどう行なっていくのか?
堆肥化」は今はまだ大多数の人にとっては少し先鋭的な考え方かもしれませんが、それが既にしっくりきているところがまた加茂くんらしいなとも思いました。

発芽するかもしれない絵画

加茂くんは今後、キャンバスに油絵具で描くという方法と別の展開として、コンポストトイレの堆肥を元にして絵の具ではなく土をつくり、それに植物の種を混ぜたものを壁画のようにして作品を作るという方法を構想しているそうです!

発芽するかもしれない絵画。固定化させない絵画です。

それは前述の「堆肥化」という考え方の中で絵画を考えたときに、ひとつの答えとして浮かんできたものだそうなのですが、どのような形になっていくのかすごく楽しみだなと思いました。

三角から円環の社会へ

コロナ禍以降急速に変わっていく社会の中で、人々の価値観や常識も同様にすごい速さで変わっていっているのは誰もが感じていることだと思います。
物質的なものやお金の価値が一番高く、その利益追求のために多くのもの(自然や人の精神性)が犠牲になってきたのが近代社会であり、その歪みを修正し、自然を含めた誰もが無理なく調和した社会を未来社会とするならば、今はちょうどその間の過渡期なのではないかと感じています。
そこへ向かう為に様々な問題が噴出し、それを皆で考えることによって人々の価値観はゆるやかに変わってくのではないでしょうか。
そして、そこには当然それぞれの思考のグラデーションもあって、多種多様な考え方を持つ人が存在することが一番重要なのだろうなと感じるのです。
東日本大震災が起きたときも同じように自分に向き合う機会がありましたが、そこから12年経ち、自分もそれなりに経験を積み年齢を重ね、またそのときとは違った視点で物事を見られるようになっている気がしています。
やはり私も、加茂くんが採用している「堆肥化」や、一般的にも理解され始めている「循環型社会」というような、何かが何かを支配して利益が出るピラミッドのような三角の構造ではなく、全てのものが調和的に存在し、お互いに利益を享受できる円環の構造をどうやって作っていくのかが次の社会への鍵となっていると思います。
このままでは物理的にも精神的にも全てが行き詰まってしまう。
そんな予感を感じつつも、そうなってきたからこそ「今までの合理性や生産性を良しとする価値観とは違う価値観を選択する。そして選択肢は実はある」ということにも心から納得することができてきているように感じます。
生まれたときから資本主義経済の上に成り立つ社会の中で、そのメリットを享受して生きている自分がそこから抜け出すのはそう簡単なことではないと思いますが、ひとつの指針として自分の心の中に芽生えているそのような想いを大切にしていきたいです。

画家という仕事、そして生き方

東日本大震災、そしてコロナ禍と、想像を超える大災害が起きる度にいろいろなことが起き、それによって人々が持っていたそれまでの常識や価値観がどんどんゆらいでいく様は、双葉郡のかつての土が除染によって剥ぎ取られ、その下にあるまっさらな状態が露呈していく様に似ている気がします。

そこに新しい価値観という土が撒かれていく。

「どんな土を選択するかは実は自分で決めることが出来るんだよ!」

そんなことを加茂くんは作品を通して伝えてくれているように思います。私の心にも、加茂くんの豊かなエネルギーが沢山つまった土が撒かれたような、そんな気がしてなりません。

画家の仕事は、この様に目に見えないものを可視化させ、人々の意識を更新していくきっかけを与えることが出来る。

加茂くんの作品を見ながらそんなことを実感し、そのような活動を様々な苦労にもめげずに続けている加茂くんを心から誇りに思いました。

そして同時に、自分はどんな意識で絵を描いていくのかということを、引き続き探りながら絵を描いていかなくてはとも思いました。 

絵を描く喜び

加茂くんの話の中で私が特に惹かれたとても素敵なエピソードがあるのですが、最後にそれを紹介させて下さい。

加茂くんはジョルジュ・ルオーの作品が好きで、ルオーの描く宗教画の筆致のひとつひとつに作家の祈りが込められているように感じるそうなのですが、2021年に開催された水戸芸術館での展示のための作品に取り掛かっているときに、加茂くん自身も自分が描き続けてきたマチエールの厚みの中に何か祈りのような精神性を感じる瞬間があり、それはそれまで自分がなんとなく好んで描いてきたマチエールが、なぜそのような厚みを必要としているのか?という問いに答えることができる、はっきりした理由を自覚した瞬間でもあったということなのです。

震災後何度も双葉郡へ通い、帰還困難区域の立ち入り禁止区域を示す看板やフェンスといったモチーフを繰り返し描き、油絵具を少しずつ少しずつキャンバスへ重ね厚く盛り上げていくマチエールの中に、自分の復興への祈りを見つけたと。

私はこの話を聞いてとても感動しました。

絵というのはこんな風に作家の思惑を超えて、逆に絵が作家へその理由を教えてくれることがあるということに、不思議な力を感じます。そしてそれは画家だけが経験できる、絵を描く最高の喜びなのではないかと思うのです。

何か理由は分からないけどとても気になるとか、好きという感覚だけを頼りに行動を起こした結果、その理由が時を経てベストなタイミングで分かる。そして、それが自分が絵を描く過程の中で起きるというのは、私も同じように経験したことがあり、その繋がっていく瞬間の何とも言えない喜びは、正に創作する者の醍醐味と言っていいのではないかと思います。

 

加茂くん自身と彼の作品が同じような強く誠実な存在感を放っているのをギャラリーの中ではっきりと感じながら、私は画家にとっての絵を描くことと生きることはやはりイコールなのだなと改めて思いました。
私も自分と自分の絵が嘘偽りなく繋がれるよう在りたいな。そんな生き方をしていきたいな。
そんなことを思わずにはいられない一日でした。