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10年の歳月がくれたもの・3

新しい暮らし 

そんな日々が続き、私の両親もいつまでも親戚の家にお世話になることはできないということで、仮住まいする場所を探すことになりました。

当時、週末のみ家族は私の一人暮らししていたアパートに泊まりに来ていた為、まずそこに近い駐車場を借りるという目的で父が近くの不動産屋さんを訪れたところ、なんとそこで避難者に家を提供したいという大家さんを紹介されたのです。

思いがけない申し出に私たちは驚きました。

幸運にも私のアパートからもそんなに離れていない場所に一軒家を借りられることになり、その家を皆で見に行くことになりました。

ちょうど桜の咲く季節で、その家の近くの公園に桜が満開に咲いていた風景を今でもはっきりと覚えています。

なんだかその風景は、震災後ずっとどんよりとしていた私の心をぱっと明るく照らすような光に満ちたものに見えたのです。

私の実家のある富岡町夜ノ森地区には、春になると道の両側に桜並木が続く桜の名所があります。

それは町の人達の自慢の場所でもありました。

新しく借りる家の近くに咲く桜並木を眺めながら、今人々が避難して誰にも見られることはない夜の森の桜も、こんな風に美しく咲くんだろうなと思いました。

新しく借りることになった家は古い一軒家で、ちょうど少し前に借りていた方が出ていかれて空き家になっており、取り壊すことも考えていたところに今回の震災が起きたという物件でした。

両親二人が暮らすには十分すぎる大きさで、日当たりもよく、小さな庭もついている家でした。

まさか一軒家に住めるとは思っていなかったので、偶然にもこんなにスムーズに事態が進んでいくことに、何か見えないものに守られているような不思議な気持ちになりました。

 

家族の新しい住まいが決まる頃、避難指示が出ている区域が警戒区域という場所に指定されることになりました。

警戒区域になってしまうともう自由にそこに出入りすることは出来なくなります。

ほとんど何も持たずに避難してきたので、警戒区域になる前に父と兄が実家から必要なものを運び出すことになりました。

その頃既に近隣の町が放射能汚染されていることは分かっていた為、実家へ行くことは多少なりとも被曝するということを意味しており、父と兄のことを心配しましたが、元消防職員である父は原子力災害に対する正しい知識を持っていましたので、きちんと対策をしてなるべく被爆ないように作業をするということでした。

(このような非常時には正しい知識を持つことは大変重要だということを強く感じました。)

震災からちょうど一か月の4月11日、父と兄は二人で実家に向かい、必要なものを運び出し、その帰宅途中にいわき市で大きな余震に遭いました。

高速道路で土砂崩れが起き、一時通行止めになる被害も出た大きな地震でした。

幸い父も兄も無事に帰宅することができましたが、こんなにも大きな余震がまだ続いていることに恐怖を感じました。

 

新しい家には実家から持ってきたもの以外にも、赤十字や母と私の友人からいただいた家具や家電などの支援物資が置かれ、あっという間に普通に生活できるような空間に整っていきました。

こうして震災から約一か月後、家族は新しい場所での生活をスタートすることになりました。

このときみんなで撮った家族写真が残っているのですが、その表情からは疲労と安堵の入り混じったようなものが感じられます。

本当に、本当に…いろいろな方に支えていただいて、新しい暮らしを始めることができたのです。

 

両親の生活が落ち着いてきた頃、4月下旬に予定していた私の初めての個展が近づいて来ました。

 

***4へつづく***