· 

言葉の熱量

私は学生時代、3か月ほど演劇部に所属していたことがあります。
一浪して入学した多摩美術大学。晴れて美大生になった私はサークル活動をしてみたくて、当時一番興味があった演劇部に入部することにしました。
そこでの経験は、短い活動期間でしたが今でも強く記憶に残っています。
まず当たり前ですが演劇は体を使って表現するものなので、学校の敷地内で走り込みをしたり、滑舌のために発声練習をしたり、とても体力を使うものでした。

美大に入ってこんなに体育会系なことをするとは思ってもみませんでした。
そして稽古後にはみんなで駅前のファミレスに行き、ああでもないこうでもない話をしながらだらだらと過ごしました。

今思うと付き合っている恋人の話やアルバイトの愚痴など、学生らしいなんてことのない話をしていたんだと思うのですが、演劇部の人たちはさすが演劇をやりたいだけのことはあってなかなか押し出しの強い個性的な人が多く、それまで毎日予備校でひたすらキャンバスに向かって絵を描いていた私にとっては、みんなの話はとても大人びて聞こえて、ああ、私って何も知らないんだなあなんて自分のことを少しひけめに感じていました。

そして、その中でもひときわ強く印象に残っているのが小野寺君です。
彼は当時裏方として演劇部に参加していたと思いますが、その頃から自分の世界を持っている感じの人で、独特の語り口を持つ人でした。

あるとき私はとても些細なことで悩んでいました。でも自分でも小さなことだと分かっているから、こんなつまらないことを小野寺君に話すのは恥ずかしいと話したところ、彼は「人の悩みがどちらがより深刻かどうかってことは問題じゃない。あなたの悩みと私の悩みは等しいんだよ。」と言ってくれて、心がすーっと軽くなりました。

なぜそのときあまり親しくない小野寺君にそんな話をしたのか。そして何について悩んでいたのかを今ではすっかり覚えていませんが、そのときの彼のはっきりとした意志を持った言葉は、それからずっと私の心の中に残り続けたのです。

その後、私は再度別の学校を受験し直して大学を中退したので、小野寺君ともそれきり疎遠になってしまいましたが、そのときもらったその言葉は、自分も誰かの真剣な心と関わるときにはこうあろうと思う、指針のようなものになっていったのでした。


そして時は流れ、2017年。

演劇部を辞めてから十数年経っていた頃、その前年末に開催していた私の個展にたまたま立ち寄ってくれて知り合いになることができた、ファッションを表現媒体にしている小川優太くんが演劇の衣装を担当することになったとSNSで告知していました。

そのお知らせに目を通したところ、なんと、その作品はあの小野寺君が作・演出を手掛けている「架空畳」という劇団の新作だったのです!

とても素敵な偶然に心がワクワクしたので、すぐに劇団公式サイトから公演チケットを入手し観劇を楽しみにしていました。

あの小野寺君はいったいどんなお芝居をつくっているのだろう?
そんな期待をしながら新宿のシアターモリエールへ到着し、受付を済ませて自分の座席を探すと、なんと最前列センターの席ではありませんか!
「私は小野寺君のことをよく覚えているけど、小野寺君はほんの少ししか演劇部にいなかった私のことなんて覚えているはずないよね」と思っていた私は、「もしかして覚えてくれている?」という気持ちの変化とともに、手を伸ばせば舞台に手が届きそうなほど近い指定の座席に着き、開演を待つことになりました。

 

そのとき観た「太陽は凍る薔薇」は、とても一言では言い表せない作品でした。
役者さん達が所狭しと舞台の上を動き回りながら、これまた観客の脳内処理速度を上回る怒涛の台詞量を放つ作品で(怒涛という言葉が本当にしっくりくるのです)その情報量の多さに私は途中から理解することを諦めて、今目の前で見ているものを感じることに集中することにしました。
それはなんだか不思議な体験で、それまでずっと疎遠になっていてあまりよく知ることのなかった小野寺君という人の頭の中を、直に見ているような生々しい感じがしました。

古代から現代まで時空を超えた様々なモチーフが複雑に絡んでいるように見えながら、実はとてもシンプルなことがテーマになっているような…

混沌とした世界の中にきらりと光るただひとつのことを見つけていく物語のように私は感じました。
終演後、舞台関係者の皆さんが観客を見送ってくださり、そのとき隅のほうに小野寺君の姿が見えたので勇気を出して話しかけてみました。
彼は私のことを覚えていてくれました。


その後、2018年、2019年の公演も観に行って、はじめはほぼ分からなかった小野寺君の世界が、回数を重ねるごとに「これってこういうことかな?」と感じられるようになってきました。
同じ時代に生きている同世代の小野寺君が、この世界をどんな風に捉えているのか。それをひとつの作品として見られることの面白さ!
彼の場合はそれを演劇という方法で、音響、照明、衣装、舞台美術、そして俳優の演技…さまざまな要素を調整しながら舞台の上に芸術作品として表現している。
これって本当にすごいパワーがないとできないことだから、小野寺君の中にそんな表現者のエネルギーがぱんぱんにつまっているのだなあと思いました。
そして、彼の言葉は昔からそれだけの熱量をもっていたから、私の心の中に深く残り続けたのだなと腑に落ちました。

 

そんな小野寺君の新作舞台がもうすぐ上演されます。
今は演劇の上演はなかなか大変な世の中ではありますが、今度はどんな世界を見せてくれるのでしょうか?

きっとこんな今だからしかできないものをつくってくれるのだと思います。
小野寺君の言葉がいろいろな人の心に届くといいなあと、今の私は思うのでした。

架空畳